このサイト(CDレビューのページ)のトップページへ
このサイト(黒門市場やすい)のメインホームページへ
邦楽/男性VO/HM・HR

X(日本)
Blue Blood
X JAPAN(エックス・ジャパン)は日本のロックバンド。1989年にX(エックス)としてメジャーデビュー。その後1992年に現在のX JAPANに改名。1997年解散。2007年再結成。通称はX。

1982年、千葉県館山市で当時高校生だったYOSHIKIとTOSHIを中心に結成。アメリカのヘヴィメタル/ハードロックバンド「キッス」に影響を受けた派手なルックスで日本では後に「ヴィジュアル系」と言われるロックの先駆者的存在とされ、後続のバンドに大きな影響を与えた。また、小泉純一郎元総理がファンの一人として知られている。

メンバー
YOSHIKI(ヨシキ、1965年11月20日 -)ドラムス & ピアノ & コーラス [1982-1997/09/22, 2007/10/22-]
(ex.DYNAMITE⇒ノイズ⇒エックス⇒X JAPAN)

TOSHI(トシ、1965年10月10日 -)ボーカル [1982-1997/04/20, 2007/10/22-]
(ex.DYNAMITE(ギター)⇒ノイズ⇒エックス⇒X JAPAN)

HIDE(ヒデ、1964年12月13日 - 1998年5月2日)ギター & コーラス [1987-1997/09/22, 2007/10/22-]
(ex.サーベルタイガー⇒エックス⇒X JAPAN)

PATA(パタ、1965年11月4日 -) ギター [1987-1997/09/22, 2007/10/22-]
(ex.ブラックローズ⇒ジュディ⇒エックス⇒X JAPAN)

HEATH(ヒース、1968年1月22日 -)ベース [1992-1997/09/22, 2007/10/22-]
(ex.パラノイア⇒カオスモード⇒ビート・スィート(ボーカル)⇒スィート・デス⇒メディア・ユース⇒マジスティック・イザベル⇒X JAPAN)


SUGIZO(スギゾー、1969年7月8日 -)ギター & ヴァイオリン [2009/5/1-]
(ex.ピノキオ⇒カシミール⇒LUNACY⇒LUNA SEA⇒THE FLARE⇒X JAPAN)


主な旧メンバー
TAIJI(タイジ、1966年7月12日 -)ベース & コーラス [1985, 1986-1992/01/07]
脱退後は本名の沢田泰司(一時、沢田大司)として活動。LOUDNESSに加入後〜D.T.R〜Cloud Nine〜音風等を渡り歩き、2006年にD.T.Rを再結成。
(ex.トラッシュ(ギター)⇒ディメンシア(Ray)⇒ブローラー⇒エックス⇒ファティマ⇒デッド・ワイヤー⇒エックス)

TERRY(テリー)(YUJI(ユウジ))ギター [1982-1985]:YOSHIKIとTOSHIの高校の同級生。2002年に交通事故により死去。
TOMO(トモ)ギター [1984-1985]
ATSUSHI(アツシ)(TOKUO(トクオウ))ベース [1985]:YOSHIKIとTOSHIの高校の先輩。
EDDIE(エディー)ギター [1985]:現RITUAL CARNAGE
HALLY(ハリー)ギター [1985]:元DIMENTIA、現United。TAIJIが最初に加入した時に連れてきたギタリスト。
JUN(ジュン)(SHU(シュウ))ギター [1985,1986]
ZEN(ゼン)ギター [1985-1986]
HIKARU(ヒカル)ベース [1985-1986]:現MEPHISTOPHELES
KERRY(ケリー)ギター [1986]
SATORU(サトル)ギター [1986]
ISAO(イサオ)ギター [1987]:バイク事故により脱退。後に臨時ギタリストであったPATAが正式加入。
大魔神五人組
大魔神五人組(だいまじんごにんぐみ)とはXだったころに、主にファンサービスとして行われていたXのパートチェンジバンドである。

Vocal:HIDE
Guitar:YOSHIKI
Guitar:TAIJI
Bass:PATA
Drums:TOSHI
バンド名の由来
Xというバンド名は、Xという字が本来持っている「無限の可能性」という意味がこめられている。結成当初は、「正式なバンド名が決まるまでの仮の名前」であって、「1文字だとコンテストのパンフレットで目立つから」という、軽い気持ちであった。 その後、世界進出にあたりアメリカに同名のバンドが存在することが分かり、1992年8月のHEATH加入発表と共にX JAPANに改名した。

来歴

結成から東京進出まで
幼稚園の頃からの幼馴染だったYOSHIKIとTOSHIは、小学校高学年でアメリカのロックバンド「キッス」の話をするような間柄であり、小学校6年生の時には共にバンドを組む約束をした。中学生の時にDYNAMITE(1978-1980)、後のNOISE(1980夏-1982)を結成。中学校の予餞会が初ライブだった。通っていた中学校が生徒増加で分割してしまい、ヴォーカリストが別の中学に編入されてしまったため、当初ギターだったTOSHIがヴォーカリストになった。地元の安房高校に進学した2人はその後もバンドを続けていたが、進学問題で他のメンバーが脱退。他校のメンバーを加えて1982年に始めたのがXだった。当時のXは、コンテスト荒らしとして地元では有名で、TOSHIはバレーボール部と掛け持ちしていたために、坊主頭で出場していた。

高校卒業後の進路として武蔵野音楽大学の推薦入試を受験する予定だったYOSHIKIが、入試1週間前に進学を断念、ロックバンドとして成功する道を選び上京した。一方TOSHIも、バンド活動のために東京都内の調律の専門学校へ進学。こうして2人は活動拠点を東京に移した。

インディーズ時代

上京後の2人は、何のツテもない状態でメンバーやライブハウスを探し、1年後の1985年にはバンドとしての体裁を何とか整えられるようになる。6月、初のシングル「I'LL KILL YOU」をDada Recordsからリリース。YOSHIKIが自身のレーベル「Extasy Records」を設立。1986年4月に「オルガスム」をリリースする。この頃になるとファンもある程度定着したが、メンバーは常に流動的だった。

「いくらいい曲を作っていても聴いてもらえなければ意味が無い」という考えから「知名度が必要」という判断し、日本テレビ「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」の「ヘビメタコーナー」に出演していた。「早朝シリーズ(就寝中の芸能人の部屋に侵入し、バズーカなどの爆音で起こす名物コーナー)」の一つである「早朝ヘビメタ」や、ステージ衣装のままで競技を行う「ヘビメタ運動会」などで話題となる。当時の放送では、YOSHIKIとTOSHIはそれぞれゲイリー・ヨシキ、オジー・アキラと名乗っていた。また、同番組の企画で「やしろ食堂ライブ」を行い、狭いやしろ食堂の店内で「オルガスム」を演奏した。これがHIDEのX加入後の初仕事となった。

実際のライブにおいてもYOSHIKIやメンバーが暴れて火を吹いたりライブハウスの設備を壊していた。シンバルにガソリンを注いで燃やし、ライブ後の打ち上げでも喧嘩が絶えず、数々のライブハウスや居酒屋から出入禁止となった。当時、ロックミュージシャンが居酒屋へ入る時、YOSHIKIがいないかどうか店員にチェックされた程である。その特異な行動から、HIDE率いるサーベルタイガー、TAIJI率いるディメンシアと共に「関東三大粗大ゴミバンド」とバッシングの対象になった。

当時の音楽業界、特にロックのジャンルにおいて「テレビ出演」はタブー視されており、硬派なイメージを保つ事で彼等の世界観を保とうとする風潮があったが、テレビ番組やライブでのXは、業界関係者や他のバンドから「ヘビメタをお笑いネタにされた」として厄介者のレッテルを貼られ、後に代表作となった「紅」も認められない時期があった。

テレビ出演をきっかけにXの知名度は全国区へと広まったXは、「他のバンドがやらない面白い事をやろう」と考えた末、当時デモテープの配布すら滅多に無かった時代にミュージック・ビデオを客に配布した。この時、他にも配布するものとして、冷蔵庫、電子レンジ、トラックなどのアイデアが出ていた。他のバンドよりプロモーションを積極的に行っていたため、他のバンドからは金持ちバンドとしてみられていた。

それと前後して、メンバーも固定化された。一時期Xに加入していたTAIJIが1986年の年末に再び加入。ビクターから発売されたオムニバスアルバム「SKULL THRASH ZONE Vol.1」のレコーディングでPATAがヘルプで参加。その後、1987年初めには、サーベルタイガーを解散させ美容師になる決心をしたHIDEをYOSHIKIが説得し、Xに加入させた。交通事故を起こしたメンバーの脱退後にPATAも正式にメンバーとなり、メジャーデビュー時のメンバーが揃った。

メンバーが揃ったXは精力的に活動を続け、1988年4月、ファーストアルバム「VANISHING VISION」をリリース。発売1週間で、当時としては異例の初回プレス分1万枚を完売した。この時、既に数社とのメジャーレーベルとの契約交渉を進めており、この年の夏に当時のCBSソニー(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)とメジャー契約を果たした。

メジャーデビュー、東京ドーム3days

メジャー進出時、Xとの契約を巡ってレコード会社間の争奪戦となった。「VANISHING VISION」は、メジャーから発売される可能性もあったが、YOSHIKIの「インディーズでまだ何も残していない」との判断で、エクスタシーからのリリースとなった。結局、Xが契約したのは、1番条件が悪かったとされるCBSソニーだった。Xがソニーと契約した理由は、他社のディレクター達が交渉で横柄な態度をとっていたためである。これにメンバーが不快感を持ったため、交渉は冷静に対応できるYOSHIKIが担当した。

契約したソニー側も会社としては積極的にXを獲得する動きは見せなかったが、当時「サウンドディベロップメント」(スカウト・育成部門、通称SD)部門所属だった津田直士が、新規プロジェクトチーム「STAFF ROOM 3rd.」配属となった事から、津田自らがディレクターとなりXと会社を説得。マネジメントまで引き受けることとなった。 1989年4月21日、CBSソニーからアルバム「BLUE BLOOD」でメジャーデビュー。オリコン初登場6位を記録。1989年だけで60万枚のセールスを記録する。当時の音楽業界はミリオンヒットが珍しい時代であり、トップレベルのロックバンドですら10万枚の売上で大ヒットだったため、「BLUE BLOOD」のセールス記録は異例であった。

その後、同年9月に『紅』をシングルカット。音楽番組出演などの積極的なメディア露出で、ヴィジュアル系バンドを見た事の無かった多くの人達に強烈なインパクトを与えた。この時もXのメディア露出過多について音楽業界から賛否両論を浴びせられた。

同年11月23日の渋谷公会堂でのライブ中にYOSHIKIが倒れ、以降のライブは延期された。これ以降、YOSHIKIは首や腕に「爆弾」を抱えながらバンドを続ける事となる。しかしYOSHIKIが不在でも、Xは日本有線大賞新人賞・日本ゴールドディスク大賞など数々の賞を受賞し、Xの人気はさらに広まっていった。

1990年2月、初の日本武道館ライブでツアーを再開。5月の大阪城ホールライブをもって、次のアルバムのレコーディングのために渡米、表舞台から姿を消した。しかし本人達が不在の間にも、前代未聞のFILM GIG(フィルムコンサート)を行い成功させるなど、Xの存在は一種の社会現象となった。

アメリカ・ロサンゼルスでの長期レコーディングで、YOSHIKIがXの最高速曲である「STAB ME IN THE BACK」のドラムレコーディング後に頚椎の異常を訴え、頸椎椎間板ヘルニアと疲労で3日間寝込んだ。以降のレコーディングスケジュールは大幅に延期され、レコード会社からは1991年7月のリリースをリミットとされたため、他の高速ナンバーや「ART OF LIFE」などのレコーディングを断念し、同年6月帰国。翌7月1日、アルバム「Jealousy」をリリース。オリコンチャート1位を記録する。8月23日、初の東京ドーム公演を果たし、10月29日には日本武道館で「エクスタシーサミット'91」を開催。同時期、新宿の小田急ミロードに「X SHOP JEALOUSIX」を期間限定で出店、日清食品から「カップヌードルX味」が発売されるなど、この頃のXはメディア露出なども合わせて絶頂期を迎えた。12月8日にはNHKホールで、「X with Orcestra」を開催。さらに12月20日のツアーファイナルの武道館ではFILM GIGのダブルアンコールで本人たちが登場し、この頃に一部新聞で報道された解散説をYOSHIKI自ら否定。12月31日には紅白歌合戦出場など、Xは日本を代表するバンドとなっていた。

1992年1月5、6、7日には日本人アーティストとして初となる、東京ドーム3DAYS公演「破滅に向かって」を敢行し、延べ12万人を動員することとなる。しかし、このライブでTAIJIが脱退。その後、1月31日の「ミュージックステーション」番組内のビデオメッセージにより、TOSHIの口からTAIJIの脱退が正式に発表された。TAIJI脱退の理由について、当初「音楽性とファッション性の違いから」と説明されていたが、その後のTAIJIの著書において「YOSHIKIに直接脱退を迫られた」という内容を告白している。「ギャラのアップ要求などバンドの嫌われ役に徹していたことに、YOSHIKIが疲れ果てたのではないか」や、また「一部のスタッフがYOSHIKIに働きかけたのではないか」など解雇理由についてTAIJIが著書で述べている。

ソニーとの契約解除、世界進出

ソニーとの契約解除については諸説ある。 1説では、同年3月、Xは、ソニーミュージックエンタテインメントから「YOSHIKIの我が侭にはこれ以上つき合えない」といった理由で、メジャー契約の更新を拒否される。これは1991年リリースされたアルバム「Jealousy」のレコーディング時におけるYOSHIKIの頚椎損傷でレコーディング期間が大幅に伸び費用が嵩んだことや、世界進出に対する費用対効果の面や方向性の違いが原因とされる。Xの人気を考慮しても、ソニーミュージックの我慢は限界に達していたとされている。その一方で、もう1説は、ソニー側はまだXとの契約を継続するつもりでいたというもので、X側から契約解除を申し出たというソニー関係者の発言がある。この件について、真実は明らかになっていない。

ソニーとの契約が切れたXは、新しいレーベルとの契約と同時に、新たなベーシストをオーディションをしながら探していった。そして1992年夏、世界進出を果たすべくアメリカのタイム・ワーナー(当時)と契約。8月24日、ニューヨークのロックフェラーセンターで記者会見を開いた。海外ではアトランティックレーベル、日本ではMMG(後のイーストウェストジャパン、現在はワーナーミュージック・ジャパンの1レーベル)から作品をリリースすることに決定。この時、同時に元マジェスティック・イザベルのHEATHの加入も発表されている。

海外進出を決めたのは良かったものの、アメリカ・ロサンゼルスに同名の「X」というバンドが存在したため、X JAPANに改名(ちなみに当初はX FROM JAPANと名乗っていたが、直ぐに変更した経緯がある)。

長期のレコーディング、バンド以外の活動

ワーナーとの契約後に最初に取り組んだのが、「Jealousy」に収録できなかった「ART OF LIFE」のレコーディングだった。デモテープは1990年夏には既に出来上がっていたが、TOSHIのヴォーカル録りが難航。1993年8月に、ようやくリリースされる。

これと平行して各メンバーのソロ活動が活発になるが、次第にX本体とのスケジュールの都合がつかなくなるなどしたために、Xのレコーディングスケジュールも管理していたYOSHIKIが、他のメンバーに不信感を募らせていった。だが相変わらず、Xのアルバムレコーディングは遅々として進まなかった。

本来、「Jealousy」に続くアルバムは世界進出アルバムとしてリリースされるはずであった。しかし、上記のバンド内の状況、TOSHIの英語発音の問題(「ART OF LIFE」では、長期のヴォーカル録りでも満足できなかったYOSHIKIが、パソコンを使って修正し続けたという経緯がある)、他のメンバーがあまり乗り気でなかった等々の理由により、YOSHIKIは「DAHLIA」での全世界リリース(「DAHLIA」英語盤の製作)を断念した。

さらに、その長期にわたるレコーディングはワーナーとの関係をも悪化させる。契約から4年ものアルバムレコーディングで経費がかかりすぎるとして、レコーディング費用捻出のために仕上った楽曲を次々とシングルとしてリリース。それでも費用がかさんだ結果、YOSHIKIはフェラーリを売却し自腹でX JAPANのレコーディングを続行。さらに、YOSHIKIは持病の頚椎椎間板ヘルニアのために数曲のハイスピードな楽曲のレコーディングを断念している。

アルバムが出ない状況の中、日本国内ではFILM GIGが開かれたり、X JAPANブランドのコンドーム発売、UFOキャッチャー向け人形のキャラクター化、セガサターン用ゲーム発売、フォーミュラ・ニッポンへの参戦、ユネスコ主催の奈良東大寺ライブへの参加、年末の東京ドームライブの恒例化、紅白への連続出場等々、様々な活動があった。

DAHLIA TOUR - 「DAHLIA」リリース

「DAHLIA」のレコーディングが終わらぬまま、1995年11月、アルバムが未発表にもかかわらず遂に全国ツアー「DAHLIA TOUR1995-1996」が開始。YOSHIKIの体調を考慮して、基本的に1 - 2週間に1個所で2daysという緩い日程だったが、翌1995年12月の仙台公演2daysが中止。翌1996年3月13日、名古屋公演1日目にYOSHIKIがライブ中に椎間板ヘルニアを再発して、そのまま以後のツアー日程は全て中止され、事実上ツアー終了。福岡の延期を除く18公演中、7公演が中止となってしまった。福岡ドームに至っては、延期公演の振替も中止となった。

長期のレコーディングの末、1996年11月4日に最後のオリジナルアルバム『DAHLIA』がリリース。しかし5年もの歳月を掛けたにも関わらず、アルバム発売以前に全10曲中6曲までがシングルリリースされる(さらに『DAHLIA』リリース後に「SCARS」もシングルカットされた)という、ベスト盤的アルバムとなった。この頃からTOSHIはX JAPANに息苦しさを感じるようになったと発言している。

TOSHIの脱退と解散

1997年4月、音楽性・方向性の違いを理由にTOSHIが脱退する。後任のヴォーカルを見つけられなかったバンドは、「2000年X JAPAN復活再結成、そのための一旦解散」を決定。9月22日読売新聞紙上に広告を掲出、解散を発表した。同日、記者会見を開き、X JAPANは解散した。その後、ファンに対する「けじめ」としてライブをしよう、とHIDEがYOSHIKIを説得。TOSHIも参加して、1997年12月31日に東京ドームで「THE LAST LIVE〜最後の夜」が行われ、終了後出演した紅白歌合戦のステージで幕引きとなった。

HIDEの死と解散後のX JAPAN

「2000年再結成」までの間、各メンバーはソロ活動を展開する。中でもHIDEは、hide with Spread Beaver名義で精力的に活動を始めた。しかしその矢先、1998年5月2日にHIDEが急逝、これによりX JAPANの再結成は叶わなくなった(2005年6月のR-25、2002年1月のWeekly Oricon、1999年6月のFeatureなど様々な場でのインタビューでYOSHIKIが公言している)。HIDEの死は、X JAPANというバンドを解散早々伝説化させる要因になった。また、以降も「ART OF LIFE」や「THE LAST LIVE」などのライブ盤やDVD、インターネット上での投票によるベスト盤リリース、全国主要都市や韓国・ソウルでのFILM GIG開催などが続いた。

さらに、HIDEと同郷であり、hide MUSEUMの建設にも関わった当時の小泉純一郎首相が「X JAPANのファン」と公言し話題を呼び、「Forever Love」が自民党の国政選挙の際にCFで使われた。しかし、その一方でTOSHIの洗脳疑惑騒動やYOSHIKIの迷走などかつてのファンを不安にさせるニュースも数多く報道されていた。特にYOSHIKIは日本で表立った音楽活動をほとんど行わなくなり、アメリカでのViolet UKの活動を主体にプロジェクトを進めていた。これには公私共に深い信頼関係にあったHIDEの死去が自身に与えた精神的なダメージが大きかったためであることを後に語っている。

2002年、YOSHIKIはNHKの「わたしはあきらめない」という番組の第一回ゲストとして出演した折、X解散について触れており、解散の直接的原因となったTOSHIについて「TOSHIの“声”を道具のように扱っていた」と、自身の行いに問題があったという内容の発言をしている。また、HIDE死後の転機となったのが、天皇在位10周年奉祝曲「Anniversary」であったとしている。この模様は後日、未放送部分が付け加えられ番組単行本に纏められている。しかし、当時のTOSHIは「自分はテレビを見ないので知らない」と受け入れることは無かった。

韓国では「Tears」が、映画『僕の彼女を紹介します』挿入歌として、日本文化解禁後の韓国映画において初の日本語楽曲使用となった。また、ヨーロッパ圏ではXの楽曲をカヴァーするバンドも現れている。後述の再結成発表の場でもアジア圏から東京に駆けつけたファンやリアルタイムでXを知らない若者たちの姿などが多く報道されていたことから、解散後も新たなファン層を開拓していたと言える。

2007年再結成
2007年には再び再結成の話が急浮上した。これはTOSHIが「YOSHIKIと再結成する話し合いを進めている」と同年2月10日に自身のホームページ上で明かしたことによるものだった。そのメッセージでTOSHIはX JAPANのかつてのマネージメント事務所社長がTOSHIのライヴ会場に何度も足を運び、他のメンバーが再結成したがっているがTOSHIはどうだろうかと、頼んで来たと話している。再結成に対して否定的であったTOSHIは、最初は頑なに断り続けていたが、あまりにも何度も来られたため、YOSHIKIにも確認し、共通の友人でもあるアーティストにも応援と期待を頂いて話を進めているとTOSHIはそのメッセージで話していた。共通の友人でもあるアーティストとは小室哲哉のことであり、小室もmyspaceに持っている自分のブログで英語で再結成について言及していた。

また、2007年2月13日発売の週刊誌・週刊女性では、TOSHIがインタビューに答え、「近々YOSHIKIがいるロサンゼルスに行く予定です。とりあえず音出してみようと思っています」とも話していた。

しかし2007年3月にX JAPANのリーダーとして活動の鍵を握っていたYOSHIKIが、自分のmyspaceブログ(項目YOSHIKIの外部リンクを参考)紙面を通じて「そのような事実はない」と英語ではっきり否定する発言を述べており、その直後TOSHIのホームページから再結成を言及したメッセージがなんの説明もなく削除されたことから、事実上2007年のX JAPANの再結成は無いことと考えられた。しかし、その後YOSHIKIがスポニチの取材に対し、「ぼくの意志は固まっている。ファンの人生でもあったバンドだから、慎重に意見を聞きつつ復活の準備を進めている」などと語ったため、再結成の可能性は濃厚になった。

そして、2007年2月14日にはソニー在籍時(即ちX時代)のアルバム『BLUE BLOOD』『Jealousy』の2枚がリマスター発売され、また、2007年3月21日にはTOSHI自身のオフィシャルサイトにて、ロサンゼルスのYOSHIKIのスタジオを訪ね、およそ10年ぶりに共に演奏したことを明らかにし、その際にセッションした楽曲はYOSHIKIがHIDEへの追悼曲として作曲し、2005年のYOSHIKIのソロアルバム『Eternal Melody II』に収録していた「Without you」であったことも明かし、YOSHIKIとのプロジェクト、新曲のリリースの動きが進行していることをほのめかした。実際、X JAPANが解散し10年、結成から25年、メジャーデビューから18年経ったことになる。

そして、スポニチの報道から4ヶ月後の2007年10月18日、オフィシャルホームページに『緊急告知』という形で活動再開が正式に発表され、東京都港区台場のアクアシティお台場屋上において、新曲「I.V.(アイヴイ)」のプロモーションビデオの公開撮影を10月22日に行う旨が報道された。同日めざましテレビで同曲の一部分が公開された。また、「I.V.」はハリウッド映画『SAW4』の全世界メインテーマソングに決定しており、この楽曲でX JAPANは念願の全世界デビューを果たすこととなる。この曲には亡きHIDEのギター音をデジタル加工して使用するなどまぎれもないX JAPAN5人の楽曲として制作された新曲であるが、この時点での音源化は未定とされており、発売の詳細発表はおよそ3ヵ月後の正式発表まで待つこととなる。また、世界デビュー曲ということもあり、歌詞は英語でDAHLIA製作時に問題となったTOSHIの発音などもYOSHIKIによって指導が行われたという。復活のXデーとなった22日にはお台場にファンが3000 - 10000人ほど集結し、救急車まで出動する事態となり、危うく撮影中止も懸念されたものの、無事撮影は行われ、存命中の4人そしてYOSHIKIに抱きかかえられた人形のHIDEが揃い、10年ぶりにX JAPANの『5人』がファンの前に姿を現した。この撮影では『HIDEも世界に連れて行く』という意味合いが強く、前述のHIDE人形のほか、彼の立ち位置には空席のマイクスタンドとギターが設置されていた。さらに同日めざましテレビや各種雑誌媒体によるYOSHIKIの単独インタビューも行われた。撮影終了後にはファンに向かってメンバーが復活の挨拶を行い、2008年春を目処に東京での復活コンサートを計画していることなども明らかにされた。YOSHIKIが語るところでは春のコンサート以外は殆ど何も決まっていないに等しく、今後X JAPANが継続した活動を行うのかどうかやアルバム製作があるかどうかなどは自身もわからないとしていた。

後日、TVでのインタビューに「YOSHIKIはXに終止符を打つための再結成で綺麗な形で終わらせるためであり、長期間の活動はしない」とのビジョンを語った。また、HIDEの後任のギタリストに関しては、ゲストと言う形をとり、HIDEのポジションを空けておく、Xは常にHIDEと一緒という発言から新たにHIDEのギターを収録することが不可能なことやTOSHIとの確執が完全に解消されたわけではないといった趣旨の発言からも、長期の活動は難しいのが現実だろうと思われる。なお、TOSHIは復活後のソロコンサートで「X JAPANもやりながら癒しの音楽もやっていきたい」と語っていた。

一方で沢田泰司(TAIJI)はこの件に関して一切コメントを発していない。

2008年本格的な世界進出へ

再結成発表後に真っ先にXが行った活動は過去のライブ映像を完全な形でデジタル化することであった。 その第一弾として発売が発表されたのはXが『X JAPAN』として行った最初のライブであり、日本人初のドーム球場での年越しコンサートでもある「日本直撃カウントダウンX JAPAN Returns」の完全版である。 CMは2007年12月5日の「FNS歌謡祭」の桑田佳祐の出番直前に解禁され、そのコピーは「X JAPANがついに帰ってきた」というものであった。 当初このDVDは12月30日盤、31日盤と特典をセットにしたDVD-BOXとが2008年1月発売予定であったが、後に制作上の都合によって2月29日発売へ延期された。発売延期の発表と同時に10月に撮影された『I.V.』のプロモーションビデオのフルバージョンがDVD-BOXに収録されることが発表された。

YOSHIKIは今後も過去の映像をデジタル化することを公言しており、「DAHLIA TOUR FINAL」や「THE LAST LIVE」の完全版の発売予定がアナウンスされている。

2008年1月20日、YOSHIKIによる、一般ファンも招待制で出席可能の記者会見が渋谷アップルストアで行われた。この会見で同年3月28日、30日に、東京ドームで2Daysの復活ライブが行われることが発表された。また、会見同日に先行予約が開始され、23日の時点では既に予約が10万枚分を越えていた。この予想以上の反響に応え、当初の予定を変更しドームの後方席も開放し増席することを決定し、さらに夏以降の追加公演と、Xにとって初の海外公演となる欧米・アジアツアーの年内の発表も明かされた。復活ライブは『X JAPAN 攻撃再開 2008 I.V. ?破滅に向かって?』と、1992年1月5日から7日にかけて開催されたXの東京ドーム3DAYS公演と同じ名前が付けられ、28日は「破壊の夜」、30日は「創造の夜」と命名された。立ち位置に付いても触れており、「HIDEがいたときと同じ配置で行く」と改めて『5人のX JAPAN』によるコンサートであることが強調された。さらにこの会見で「I.V.」のiTunes Storeなどにおける全世界23ヶ国同時発売が発表され、これによってX JAPANは音源発売という形で世界に向けて動き出したことになり、本格的に世界進出を実現させることになった。

また同日夕方、タワーレコード渋谷店において、X JAPANメンバーと招待されたファン160人によるトークライブが行われ、長年確執が報じられてきたYOSHIKIとTOSHIの間でも和やかに言葉が交わされていた。

同時に各種雑誌媒体やMySpaceによるYOSHIKIへのインタビューも行われ、Violet UKや今後のX JAPANの方向性に関する構想を発表し、注目されるX JAPANとしての活動は「I.V.」の日本語版や「Without you」の製作のほか、新曲のレコーディングをほのめかす発言や「もしかしたら当初の構想より長く活動できるかもしれない」と言った前向きな発言が目立った。

後日、復活コンサートはあまりにも反響が大きく2日間ではキャパシティを確保不可能と判断し、YOSHIKIを始めとするメンバーの休養のため空けられていた29日に追加公演を行うことを決定。29日はYOSHIKIも「命を張る覚悟」として「無謀な夜」と命名された。こうして結果的に、1992年以来となる東京ドーム3DAYS公演を行う予定となった。同時にチケットの価格高騰に対する懸念から、プレミア席のオークションの中止も発表された。

そして復活ライブ当日、会場の東京ドームには多くのファンが集まり、グッズ売り場周辺には長蛇の列ができた。1日目「破壊の夜」開場予定時刻迎えたが開場されず、18時30分に開場し、その約2時間20分後、THE LAST SONGによってライブが始まった。しかし、曲順の大幅変更や、ART OF LIFEの演奏中にYOSHIKIが倒れてライブが半ば強制終了になるなど、待ち時間より演奏時間のほうが短いという、異例の事態がおきた。翌日、YOSHIKIは「無謀な夜」開演前、会見を行い、前日の遅れた理由について「HIDEを3D映像で再現しようとしたら、機材トラブルが度々起こり、そのために遅れた。どうしてもHIDEの姿をファンに見せたかったんです。」とコメントした。「無謀な夜」「創造の夜」は、ほぼ予定通りに始まった。また、この復活ライブでは、YOSHIKIと親交があるSUGIZOが「Silent Jealousy」や「I.V.」などの数曲でHIDEのパートを演奏し、ステージやモニターには特殊映像(ホログラムなど)によって再現されたHIDEが登場している。

2008年5月4日に東京・味の素スタジアムで行われたHIDE追悼ライブ(hide memorial summit)の二日目に出演し、「Without You」や「ピンクスパイダー」等を演奏した。またLUNA SEAメンバーと「BELIEVE」を演奏した。

HIDEの追悼ライブの後に、2008年7月5日のパリ、8月2日の台北、9月13日のニューヨークのX JAPANの公演の発表後、世界各国から公演依頼が殺到し、日本を含め、全世界を回る大規模なツアーを予定していたが、YOSHIKIの持病の頸椎椎間板ヘルニアと腱鞘炎が悪化したため、同年6月に全公演の延期を決定。 しかしその後、YOSHIKIの病状が回復したためパリ公演をベルシー多目的スポーツセンターで同年11月22日に行うことが決定したが、X JAPANが世界ツアーを行うためにマネジメント会社と契約、それに伴い延期となった。

12月31日に赤坂BLITZでX JAPAN COUNTDOWN GIG ?初心に帰って?を公演した。この公演はCS放送、DMM.comによる独占生中継が行われた。また、キャパシティが少ないため全国13館のTOHOシネマズにて中継上映も行われた。赤坂BLITZ公演チケットがオークションなどで定価以上で取引されていることを懸念し、2009年に東京ドームにて4日間、他ドームで2日間と合計6日間のドーム公演を行い30万人を導入すること発表した。

2009年 初の海外公演、SUGIZOの加入

カウントダウン公演に端を発するワールドツアーは2009年に入り本格的に開幕。1月16〜17日には、X JAPAN初の海外公演となる香港公演、X JAPAN WORLD TOUR LIVE IN HONG KONGがアジアワールドエキスポで行われ、2日間で2万人を動員。この香港公演は当初、17日のみの「破壊の夜 in HONG KONG」の1公演を予定していたが、12月18日に発売されたチケットは即日完売。この反響の大きさにより、急遽16日にも「破壊の夜 Extra」と題した追加公演を行うことを決定。追加公演のチケットは直前の1月7日に発売される事態となった。

香港公演後には一時期、HEATHに関するトラブルが発生し、2〜3月に予定されていた台北公演・ソウル公演は延期が決定され、最悪二度目のベース脱退という事態に陥る。こうしたトラブルの中、すでに発表されていた5月2〜3日のワールドツアー東京ドーム公演「X JAPAN WORLD TOUR Live in TOKYO ?攻撃続行中?」のチケットは出演メンバー未定のまま予定通り販売、YOSHIKIは「強行突破」を宣言した。

HEATHの脱退はすでに避けられないという見方もあったものの、公演が翌日に迫った5月1日にHEATHから脱退が回避されたという旨とファンへの謝罪が公式サイトに掲載され、同時に復活公演以来サポートメンバーとしてともに活動していたSUGIZOが「6人目のメンバー」として正式に加入した。こうして、HIDEの命日でもある2日と翌日の3日に、『6人のX JAPAN』による初公演となる「無敵な夜」「18回目の夜 SPECIAL」は無事開催された。この場で「I.V.」「Without You」に次ぐ第三の新曲『Jade』が初披露されたほか、新たに加わったSUGIZOのヴァイオリンとYOSHIKIのピアノによるコラボレーションなど、6人編成になったことによる新しい要素も見られた。このライブはこれまで同様にDMM.comによるインターネット同時生中継が行われた。。 5月30日には、2度目の(正式に6人編成となってから初の)海外公演となる台湾公演「X JAPAN WORLD TOUR Live in TAIPEI」が開催された。さらに6月にはYOSHIKIがフィルムコンサートが開催される北京、上海でのファンミーティングのために中国へ赴き、北京での公演予定地である「鳥の巣」(北京国家体育場)の視察も行っている。

その後、ワールドツアーは10月10日のパリ公演がアナウンスされていたが、YOSHIKIの持病である頸椎椎間板ヘルニアが更に悪化していることが判明し、ついに頸椎椎間孔切除の手術を余儀なくされたため活動は再び停滞。日程も決まっていたパリ公演は三たびの延期、2009年内の開催を予定していた大阪公演も延期となった。

7月末のYOSHIKIの手術後、8月22日には6年ぶりとなるフィルムコンサート「X JAPAN FILM GIG 〜鈴鹿の夜〜」が開催された。これはYOSHIKIがプロデュースするレーシングチーム「TEAM YOSHIKI&童夢プロジェクト」が出場するSUPER GTレースの前夜祭に伴って行われたもので、X JAPANのフィルムコンサートとしては初の野外公演となった。これには当初YOSHIKIの出演がアナウンスされていたものの、その後に手術が決まったこともあり、出演は取りやめとなっていたが、当日になりYOSHIKIとTOSHIがサプライズ出演。公の場にYOSHIKIが姿を現すのは手術後これが初めてとなった。

10月にはTOSHIが肋間神経痛を患い、発声もままならない状態にまで陥る。当面活動休止となり、ソロ活動はもちろんこれからのX JAPANとしての活動も危ぶまれたものの、この活動休止期間が結果的にTOSHIの大きな転機となった。

2010年
この節は現在進行中の事象を扱っています。記事の内容は最新の情報を反映していない可能性があります。

1月6日〜14日にロサンゼルスにてミュージック・ビデオの撮影が行われ、前年5月の台湾公演以来久しぶりにメンバー6人が顔を揃えた。6日にはL.A.センタースタジオ、7〜8日にはL.A.シアターへと場所を移し、そして9日にはハリウッド・コダック・シアターの屋上に設置された特設ステージの上でライブ形式の公開撮影が行われた。9日の公開撮影は年末にすでに公式サイト上で現地や日本のファンに発表されており、総入場者は8000人、総制作費は5億円に上る今までにない大がかりな撮影となった[15]。その後12〜14日にもさらに場所を移して撮影が行われている。撮影は「I.V.」「Jade」といった復活後の新曲に加えて「Rusty Nail」「紅」「ENDLESS RAIN」といったすでにビデオが存在している代表曲にも行われた。X JAPANがアメリカでパフォーマンスを行うのは初めてのことであり、これが本格的なアメリカ進出への第一歩となった。これらのミュージック・ビデオの発表の有無、時期、形態などは未定。

この9日の公開撮影がYOSHIKIにとっては手術後初、TOSHIにとっては活動休止後初のパフォーマンスの披露となった。TOSHIはこの撮影の直前に至っても全く声が出せない状態が続いていたが、この撮影をきっかけに声を取り戻したことを撮影直後の単独記者会見で明かした。この記者会見でTOSHIは自己破産申請・離婚調停・ソロ活動でのパートナーであったMASAYAとの決別などを告白(TOSHIを参照)。ソロ活動の一先ずの終了、2月24日にYOSHIKIプロデュース・X JAPANメンバー全員参加の「さよならコンサート」の開催も発表された。

2月1日には第52回グラミー賞授賞式にボーティングメンバーであるYOSHIKIが出席。2010年の8月6日〜8日にかけてアメリカ・シカゴで行われるロックフェスティバル、ロラパルーザのメインステージにX JAPANとしての出演が決定したことをプレスに明かした。正式発表は2月下旬。

盤権

Xのメジャーデビュー以降の楽曲は、オリジナル楽曲が34曲にもかかわらず数社のレコード会社からリリースされている。最初に契約した当時のCBSソニー(現在のソニーミュージックエンタテインメント)では、アーティスト契約と同時にマネジメント契約も交わしていたため、いわばソニーの丸抱え状態であった。よって、ソニーとの契約期間中にリリースされた楽曲の盤権は今もソニー側が所有しており、現在はソニーミュージック子会社のキューンレコードが管理している。

キューンが盤権を管理する楽曲は、アルバム「BLUE BLOOD」の12曲、「Jealousy」の10曲、それに本来「Jealousy」に収録されるはずだった、新録された「Sadistic Desire」とシングル「Standing Sex」の計24曲。さらに、ソニーとの契約期間中に収録されたライブ音源も含まれる。

ソニーとの専属契約解除後、「自分達の楽曲を自由に使えない」という反省からXは「EXCESS24」という専属マネジメント会社を設立。以降の楽曲盤権は全てX側が保有し、後に楽曲をリリースするレコード会社とはリリース契約に限定された。X JAPAN解散後は、YOSHIKIのマネジメント会社「Japan Music Agency」に盤権が引き継がれている。現在でもYOSHIKIはこのソニーとの契約を「自分の子供を人質にとられたも同じ」と強く批判している。

1992年にリリース契約したMMGはワーナーミュージックの子会社で、海外デビューの際はワーナーのレーベル、アトランティックからリリースされる予定だった。シングル「Tears」発売後にMMGはイーストウエストジャパンと社名が変わるが、この「east west」もワーナーのレーベルである。現在ではワーナーミュージックに吸収合併されている。

Xの末期にはワーナーと平行してポリドールからもリリースされている。ポリドールは後に親会社がMCAと合併してユニバーサルミュージックとなったため、日本においても1999年に社名が変わっている。

解散前後には、YOSHIKIが「ワーナー・ポリドールとの契約消化のため」に企画物のライブアルバム等を乱発している。ちなみに、PV集「DAHLIA THE VIDEO PART II」とライブビデオ「DAHLIA THE TOUR FINAL 1996 東京ドーム完全収録」の2本は、諸般の事情からVHS盤はキングレコードよりリリース、後のDVD化の際にはユニバーサルからリリースされている。

1997年12月にリリースされたバラードベスト「BALLAD COLLECTION」では、ポリドールからのリリースながら、「ENDLESS RAIN」「Say Anything」といった、ソニーが盤権所有する楽曲もすんなりオリジナル音源で収録されている。ソニーから追い出された形のXだが、ソニーとの関係は険悪なものではなかった。事実、ソニーミュージックとの契約解除の数年後、親会社ソニーが発売するカセットテープ「X」のCMにはXの「X」が使われている。

しかし、1999年2月にワーナーからリリースされた「PERFECT BEST」では、ソニーが盤権保有する楽曲は何れもライブバージョンであり、それも全てソニーとの契約以前、もしくは契約解除以降に録音されたものである。これはレコード会社間の利害関係に巻き込まれた結果の苦肉の策である。

2001年12月にユニバーサルからリリースされた「X JAPAN BEST -FAN'S SELECTION-」は、ソニーも含め全てオリジナル音源で製作されたベストアルバムとなっている。

なお、各メンバーのマネジメントについては解散後は全メンバーが独立した事務所を開いており、これは再結成後もそのままの事務所に所属した形での活動となる。よって、同一グループながらも所属事務所はバラバラという形態での活動となる見込みである。再結成後もX JAPANの公式ページと各メンバー個人のページとで情報に若干の差異があるのはこのためと考えられる。なお、X本体のページは主にYOSHIKIが全面的に管理を行っており、リンク先にも真っ先にYOSHIKI mobileが表示されるようになっていたり、YOSHIKI寄りの情報が多めに掲載される傾向がある。

なお、デジタル配信で長時間演奏の楽曲については10分を越えるものについてはアルバム購入のみとされており、1曲収録の「ART OF LIFE」「THE LAST SONG」はそれぞれ時間に合わせて1200円、600円とされている。それ以外の解散前音源については全て150円、復活後の音源は200円で販売されている。(Wikipediaより引用)
『BLUE BLOOD』(ブルー・ブラッド)は日本のロックバンド、X(エックス)のメジャーファースト・アルバム。通算では2枚目。

インディーズでのリリースであった前作『VANISHING VISION』を経てリリースされたメジャー・デビュー・アルバムであり、1989年4月21日にCBSソニーよりリリースされた。
初のフル・オーケストラ導入作。オーケストラ・アレンジは斎藤ネコが担当した。
前作『VANISHING VISION』の収録曲のほとんどが時期が経つにつれコンサートで演奏されなくなっていったのに対し、このアルバムの収録曲は最後の時期まで演奏されていたものが多かった。
2007年2月14日に次作『Jealousy』と共にリマスタリングされ、期間限定で再リリースされ、2008年には復活にあわせカラオケディスクを除いたものがリマスターエディションとして再度発売された。
アルバムのジャケットのXの文字には、Xのキャッチフレーズである「PSYCHEDELIC VIOLENCE」「CRIME OF VISUAL SHOCK」と書かれてある。
アルバムタイトルは直訳で「青い血」であるが、(そういった意味を意図したタイトルではないが)「貴族出身」「名門の出」といった使い方が英語圏ではなされる。
メジャーデビューアルバムでありながら、オリコンの売り上げとしてはX JAPAN名義を含めバンド最多の100週以上のチャートインを記録し、100万枚以上を売り上げ、Jealousyに次いで2番目の売り上げとなった。
(Wikipediaより引用)
X
Jealousy
X Japan
DAHLIA

これらの音源は、「八百屋さんの居酒屋やすい」で視聴できます。
http://www.kuromon-yasui.jp/izakaya.htm
オーディオシステムに関しましてはコチラ             
http://www.kuromon-yasui.jp/ordeo.htm