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洋楽/男性VO/ブラック/ポップス

Prince
プリンス(アメリカ)
1999
5作目

プリンスは、アフリカ系アメリカ人。本名、プリンス・ロジャーズ・ネルスン(Prince Rogers Nelson)。
ミネアポリスサウンドと呼ばれるムーヴメントの中心的存在。この先、何十枚でもアルバムを発表できるだけの楽曲のストックがあるといわれ、またどれほど優れた曲であろうともアルバムの流れから外れた曲は表に出さないという主義から、多大な数のブートレグを生んでいる。その特異な才能への敬意と Prince という名にちなみ、日本のファンは彼を「殿下」と呼ぶ。

ローリング・ストーン誌の2007年11月号の企画、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も過小評価されている25人のギタリスト」に於いて第1位。

曲のタイトル・歌詞の特徴として、to は「2」、for は「4」、you は「U」、are は「R」など同音異字を用い、I (アイ) は「eye」の表象文字で記載されている。

イメージカラーは主に「紫」。これは「PurpleRain」発売前からであり、むしろこのタイトルがこのイメージに合わせたとも考えられる。

初期のころからセクシャルなイメージが強く、「I Wanna Be Your Lover」のミュージックビデオにビキニパンツにレッグウォーマーという衣装で出たり、アルバム「Lovesexy」のジャケット問題、さらには臀部が全開のパンツでパフォーマンスしたりと様々な逸話がある。またアルバム「Purple Rain」は収録曲「Darling Nikki」の露骨に卑猥な歌詞によりティッパー・ゴアによる「問題のある内容のレコード」に貼るウォーニング・ステッカーの第一号となった。しかし近年では、改宗を期に「古くからのファンも家庭を持つ年齢になったから」とセクシャル路線をやめることを宣言した(後はマドンナに任せるとも言っている)。

ジュニアハイスクール時代に友人や従兄弟らと共にバンドを結成したプリンスは長じるにつれ頭角を現し、ミネアポリスサウンドと呼ばれるムーブメントの中心的存在として注目を受けるようになる。
メジャーレーベルはこぞってこの才能に溢れた少年との契約を望んだ。そして、1977年に数社の入札の結果、ワーナー・ブラザーズと契約。19歳の少年としては異例の高額な契約金とセルフ・プロデュースの権利を同時に獲得する。
1978年、プリンスはたった一人でデビューアルバム「For you」を作り上げ、そのメジャーキャリアをスタートさせる。ビルボードチャートは163位に終わるものの、シングルカットされた「Soft And Wet」はR&Bチャートをにぎわせた。
1979年、バックバンドを集めるものの、やはりアルバム作成はほぼひとりでやってのけ、セカンドアルバム「Prince」を発表。キャッチな曲として「Why You Wanna Treat Me So Bad」、「I Wanna Be Your Lover」がR&Bチャートでヒットとなった。なお「I Wanna Be Your Lover」は全米シングルチャートでも最高位11位にランクされる大ヒットとなり、一躍その名を世間に知らしめることとなる。日本で発売されたアルバムはこれが最初のものとなる。
1980年には「Dirty Mind」を発表。本来発表するつもりのないデモテープであったが、マネージャーの勧めで発表することになった。また、「Head」と「Sister」の詞が性的に露骨過ぎるという理由で放送禁止曲になることで話題を集めた。しかし、そのためにセールス的には前作を下回ってしまった。
1981年には「Controversy」を発表。同名シングルがインターナショナルチャートにランクインする。また同時期にザ・タイムのデビューアルバムをプロデュースする。クレジットはされていないが、実際には作詞作曲演奏のすべてを行っている。この他にもヴァニティ6(アポロニア6)、シーラ E.などをプロデュースし、プロデューサーとしてもその非凡さを証明する。また、シーナ・イーストンやバングルスなど他の歌手への楽曲提供も少なくなく、さらにはプリンスの曲をカヴァーするアーティストも多く、ケイト・ブッシュ、チャカ・カーン、トム・ジョーンズ、シネイド・オコナーなどが代表格。日本では白鳥英美子や矢井田瞳が「Nothing Compares 2 U」をカヴァーしている。この時期に、ローリング・ストーンズの前座としてツアーを行っており、公演によっては、物を投げつけられるなどの客からのブーイングを受けた。当時ストーンズの楽屋を訪れたデイヴィッド・ボウイが、トイレで泣いている彼を見掛けたため、以後は自身のツアーに前座をつけることをやめたというエピソードが残っている。
1982年ごろからプリンスはバックバンドをザ・レヴォリューションと名付けた。それに伴いアーティスト表記もプリンス単独名義からプリンス・アンド・ザ・レヴォリューションに変わった。レヴォリューションはメンバーを若干変動させつつ1986年まで存続する。それから1990年までは特にバックバンドに呼称を与えない時期が続き、アーティスト表記も個人名義に戻る。1991年、前年のツアーバンドをザ・ニュー・パワー・ジェネレーション(略称NPG)とし、再び個人名義でない表記(プリンス・アンド・ザ・ニュー・パワー・ジェネレーション)を使い出す。NPGは現在も存続するが、結成時のメンバーは残っておらず、特定の音楽コンセプトの表象というよりは、バックバンドの代名詞となっている。

プリンスは魅力ある女性を積極的に登用することでも知られ、シーナ・イーストン、キム・ベイシンガーやカルメン・エレクトラなどが挙げられる。その一方でマイルス・デイヴィスやジョージ・クリントン、ラリー・グラハム、メイシオ・パーカー といった著名なジャズやファンク系のミュージシャンとのセッションを行っている。また、マドンナ、アーニー・ディフランコ、グウェン・ステファニー や チャックDともレコーディングを行っている。実現しなかった競演だが、マイケル・ジャクソンも「BAD」を当初はプリンスとのデュエットとして作曲し、プリンスにレコーディングの依頼をし会食の段階まで行ったが、終始険悪なままプリンスは「この曲は君一人で歌ったほうが良いよ」と丁重に断ったとされる。マイケルは2007年にも自身の復活ツアーへの出演をオファーした(が、プリンスが断った)。チャリティープロジェクトUSAフォー・アフリカの「ウィー・アー・ザ・ワールド」にも参加予定だったが、レコーディングスケジュールが合わず(と言うか、トラブルを起こし、警察の事情聴取のため)断念。代わりにアルバム楽曲提供を行った。

1982年に2枚組アルバム「1999」をリリースしたプリンスはついにブレイクを迎える。全米で400万枚を売り上げたこのアルバムからは「Little Red Corvette」(6位)、「1999」(12位)、「Delirious」(8位)がシングルカットされ、全米チャートで初のトップ10入りを遂げた。同時に MTV ではじめてプロモーションビデオが放映された黒人アーティストとして、マイケル・ジャクソンとともに名を連ねることになる。なお、本作のCDは1枚で発売されたため、収録時間の都合上、1980年代から1990年代にかけて発売されていたCDからは D.M.S.R. が削られている。
1984年、同名映画のサウンドトラックとして「パープル・レイン」が発表され、プリンスのコマーシャル的な価値は頂点に達する。発表初週に100万枚を売り上げたこのアルバムは、ビルボードチャートのトップに実に24週間も居座りつづけた。シングルカットされた「When Doves Cry、Let's Go Crazy」の2曲がシングルチャートで1位となり、プリンスは全米でのボックスオフィス、アルバムチャート、シングルチャートですべて1位を獲得するという偉業を達成する。なお、本作からは他に「Purple Rain」(2位)、「I Would Die 4 U」(8位)、「Take Me With U」(25位)がシングルカットされている。また「When Doves Cry」は年間シングルチャートでも1位を獲得している。
プリンスの自伝映画として製作されたこの映画は、6800万ドルの興行収入を得て週間ボックスオフィスで1位、年間で11位という堂々たる成績を収めている。なお、同年のアカデミー賞歌曲・編曲賞を受賞している。オスカー像はのちにプリンスが設立したペイズリー・パーク・スタジオの一角に大事に飾られているという。
全米で1300万枚、全世界で1500万枚を売り上げた「パープル・レイン」の収益でプリンスは独自レーベルであるペイズリー・パーク・レコードを設立する。1985年にこのレーベルから「Around The World In A Day」を発表。前作とはがらりと作風を変えてきたこのアルバムも全米チャートで1位を獲得する。
翌1986年には監督をも努めた映画「Under The Cherry Moon」のサウンドトラックとして「Parade」を発表。映画自体は興業的に失敗するものの、アルバムは全米で3位となり、シングルカットされた「Kiss」は全米1位を獲得する。このときのチャート2位が バングルス の「Manic Monday」であったが、この曲はプリンスが Christopher というペンネームで提供した曲である。また、この年 Parade tour で初の来日公演を果たしている。バックバンドザ・レヴォリューションはこのツアーを最後に解散する。ちなみにプリンス・アンド・ザ・レヴォリューションの最終公演は横浜だった。
この「Under The Cherry Moon」は1987年のゴールデンラズベリー賞(ラジー賞)で最低作品賞、最低監督賞、最低主演男優賞、最低助演男優賞(ジェローム・ベントン)、最低主題歌賞を受賞した。

1987年には多くのファンが最高傑作として挙げることの多い、2枚組アルバム「Sign "?" the Times」を発表する。当初は3枚組アルバム「Crystal Ball」として発表されるはずだったこのアルバムは、ワーナー・ブラザーズとのコマーシャル的ないざこざから削られ、このサイズに落ち着いたという。なお、ツアーの撮影したものをベースに作成された同名の映像作品が発売されている。純粋なライブ映画ではないものの、プリンス関連の映像作品としての評価はもっとも高い。

同年、「The Black Album」がレコーディングされるが、発売直前になって発売が中止される。歌詞があまりにも攻撃的だったということが理由とされているが、やはりここでもワーナー・ブラザーズとの確執があったためとも言われる。この音源はブートレグとして流出し、世界最高の売上であろうと思われる500万枚以上が販売された。同アルバムは最終的に1994年にワーナー・ブラザーズから発売されている。

1988年には「The Black Album」のアンサーアルバムとなる「Lovesexy」をわずか4か月の制作期間を経て発表するが、そのジャケットが物議をかもし、CDでの曲間ジャンプが出来ないようにアルバム全体が1曲扱いになっているという仕様(ただし発売国によっては異なる)のアルバムはセールス的には全米11位、売上50万枚と低迷した。同様に全米ツアーも低迷したが、その低迷分をヨーロッパと日本へのツアーで補うことができたという。

1989年、映画バットマンのサウンドトラックを担当する。サウンドトラックとされているものの、その実は映画にインスピレーションを得たオリジナルアルバムとなっている(ダニー・エルフマンによる映画オリジナルスコア楽曲集は別途発売)。初回限定で缶入りCDも発売された。アルバム、およびシングルカットされた「Batdance」はチャート1位を獲得する。またこの時、日本のミュージシャン小比類巻かほるへの楽曲プロデュースも話題になった。80年代末から90年代半ばまで『Glam Slam Yokohama』というディスコを横浜で経営もしていた。お忍びでシークレットギグを開催したこともある。

1990年、「Purple Rain」の続編となる映画 「Graffiti Bridge」を制作するが興業的には振るわなかった。同名のサウンドトラックではザ・タイム、ジョージ・クリントン、テヴィン・キャンベル、メイヴィス・ステイプルズをフィーチャーしているが、チャート6位、売上50万枚とふたたび低迷する。

1991年にはバックバンドにザ・ニュー・パワー・ジェネレイションを従え「Diamonds and Pearls」を発表。全米チャートで3位、売上200万枚。シングルカットされた「Cream」が1位、「Diamonds and Pearls」が3位を獲得している。

1992年には独自にデザインしたシンボルマークをタイトルにしたアルバムをリリースする。発音不明のため本国では"Symbol"と呼ばれ、日本では「ラブ・シンボル」と邦題がつけられた。全米5位、100万枚のセールス。

1993年、プリンスはワーナー・ブラザーズと再契約を交わす。アルバム6枚分の長期契約であった。その契約金は、当時の音楽史上最高額となった1億ドル。さらにワーナー・ブラザーズの副社長の座につき、アルバム発表ごとに、200万ドルの報酬金を受取るという破格の条件であった。しかしプリンスにとっては、今まで以上に作品に規制が掛かり、自分が望むような自由な活動が出来ない事に不満が溜まり、お互いの信頼関係が崩れ始める。同年、独自レーベルのペイズリー・パーク・レコードが、プリンス以外のアーティストのセールス低迷などを理由に閉鎖。それと同時にインディーズレーベルとしてNPGレコードを設立する。
その後、ワーナー・ブラザーズとの契約消化の為にハイペースでアルバムを発表し続ける事になる。
その際にプリンスはその名を捨てる。1994年発売の「Come」において「プリンスの死」を宣言し(この際のアーティスト表記は正確にはPrince 1958 - 1993である)、1992年のアルバムのタイトルであるシンボルを自らの名とした。このシンボルは、男性(♂)と女性(♀)を融合させ、さらに音楽を象徴すると推測されているラッパを思わせる記号をくみあわせたもので、錬金術の記号にルーツを持つという。しかしプリンスはこのシンボルに対しての読み方を特に決めなかったため、彼の名前を音声で伝えることが不可能になった。結局ラジオDJなどはシンボルマークを指して、「元プリンス」(the Artist Formerly Known As Prince=かつてプリンスと呼ばれたアーティスト、かつてプリンスとして知られたアーティスト)と呼んだ。さらに略して単に「ジ・アーティスト」(The Artist)とも呼ばれ、プリンス側もまたジ・アーティストと呼ぶのが通例だった。
この時期から2000年代にかけて、プリンスは多くのライヴをこなしている。
また、ライヴ会場は大きなアリーナだけではなく、小さなクラブで深夜にごく少数の観客を集めて行われている。ときおりペイズリー・パーク・スタジオでも行われたそれは、一般にアフターショウと呼ばれる、入場者は5人から2500人というような小規模なライヴは、八十年代中盤から積極的に行われており、コンセプト上メインのツアーではやらないようなカバーや、気ままなジャムセッション、リサーチもかねた新曲の披露などは、公式に一部ビデオ化されているだけでなく、隠し撮りされた音や映像が膨大な数で回っていることからも分かるように、プリンスのライヴを語る上では本人にとっても、ファンにとっても、単なる余興を超えた重要な位置を占めている。
1994年に「Come」、1995年に「The Gold Experience」をリリースするが、この頃よりマスターテープの権利をめぐりワーナー・ブラザーズとの関係が悪化していく。

1995年に発表した爽快なロックチューン「Endorphinmachine」が格闘技大会 K-1 WORLD GP シリーズのオープニング・テーマに使用され、日本でプリンスを知らない層にも幅広く有名になった。

1996年の「Chaos And Disorder」のジャケットは、踏みつけられたアルバム「1999」のレコード盤(瞳のイラスト)に涙が書かれ、その涙がワーナー・ブラザーズのマークであるという意味深なデザインだった。ワーナー・ブラザーズ時代のオリジナルアルバムはこれが最後となる。

1996年、内向的かつ攻撃的であった前作のイメージとはうって変わって、大手レコード会社の契約から解放されたイメージの「Emancipation」を(EMI と1枚のみの配給合意)リリース。東京でワールドプレミアを開催した。

1999年、ワーナー・ブラザーズから、最後の契約枚数消化の為に未発表曲集「The Vault? Old Friends 4 Sale」が発表される。同じ年にアリスタと配給合意しアルバム「Rave Un2 The Joy Fantastic」を発表。プロデューサーとしてプリンスの名前がクレジットされる。

2000年、ワーナー・ブラザーズ傘下の出版会社ワーナー・チャペルが管理する出版権が切れるのを機に、自分の名前を正式にプリンスに戻すと発表。

2001年、プリンス名義としては9年ぶりのオリジナルアルバム「The Rainbow Children」を発表。宗教的でスピリチャルな内容が海外では賛否両論を呼んだターニングポイントの作品。

ワーナー・ブラザーズを離れてからは主にオフィシャルサイト「NPG Music Club」を中心に活動していたが、2004年2月に第46回グラミー賞のオープニング・アクトをビヨンセと共演。3月にはロックの殿堂入りを果たし、4月にコロムビアと配給合意しアルバム「Musicology」を発表。コンサートツアーが全米で年間最高の観客動員数と収益を記録し、第47回グラミー賞でも2部門を受賞。米音楽シーンの中心に返り咲いた。

2005年2月、人種差別問題や社会問題などについての認知度を高めたという功績が認められ NAACP Vanguard Award を受賞する。また、ハリケーン・カトリーナの被害救済に一早くチャリティ曲「S.S.T.」をネット配信した。12月、ユニバーサルと配給合意し、ニューアルバム「3121」からの先行シングル「Te Amo Corazon」をネット配信。

2006年3月にアルバム「3121」を発表、ビルボード総合アルバム・チャートで初登場1位を獲得した(通算4枚目の全米No.1アルバム、初登場1位は今回が初めて)。

同年11月、ワーナー・ブラザーズ配給映画ハッピー フィートに、新曲「Song Of The Heart」を提供。

ラスベガスのリオを貸切り、3121クラブをオープン。翌年4月まで、毎週末にそこでライヴを行う。

2007年1月、『Song Of The Heart』がゴールデン・グローブ賞で主題歌賞を受賞。

2月4日に行われた第41回スーパーボウルのハーフタイムショーに出演し、雨の中パープル・レインを含むメドレーを披露した。視聴率は、アメリカのテレビ史上3番目の高さで約3億人が見たといわれている。

3月、NAACPの授賞式において、最優秀黒人アーティスト(イメージアウォード)を受賞。

5月31日、アメリカの携帯電話ベライゾン・ワイヤレスに、新曲「Guitar」を無料ダウンロードサービス開始。

7月24日に発売のニューアルバム「Planet Earth」が、同15日発売のイギリスの新聞デイリー・メールの日曜版、「The Mail On Sunday」に付録として無料で配布され、業界に波紋を起こす。

9月14日、ファンサイトに対して著作権侵害を理由に、写真、似顔絵、歌詞、アルバムジャケットなどの掲載を一切やめるよう通告がおこなわれた。それに対し、複数の大手ファンサイト運営者たちは「Prince Fans United」を結成、11月5日に抗議文を発表する。プリンスはその回答として11月8日に「F.U.N.K.」をネット配信した。

2008年2月、第50回グラミー賞にて、最優秀R&B男性ボーカル賞を受賞。

10月、2007年に行ったロンドンのO2アリーナ公演を記録したフォト・エッセイ本「21 Nights」(ライヴアルバム「Indigo Nights」が付属)をリリース。

2009年3月2日、アメリカの大手小売りチェーンターゲットは、プリンスがかねてより製作していた3枚組のアルバムを同月29日に発売すると発表。プリンスの『Lotusflow3r』『MPLSOUND』と題された2枚のアルバムと、プリンス自身が発掘した新人女性シンガーブリア・ヴァレンティのデビューアルバム『Elixir』と組み合わせた3枚組アルバムとなる今回のアルバムは、大手レコード会社を通さず小売店と直接独占販売契約を結ぶという従来の音楽業界では異例の販売形態となった。それに伴い、新オフィシャルサイトLOTUSFLOW3Rを公開した。

「1999」はプリンスの1982年発表の代表作である。全米で400万枚を売り上げたこのアルバムからは「Little Red Corvette」(6位)、1999(12位)、「Delirious」(8位)がシングルカットされ、全米チャートで初のトップ10入りを遂げた。同時に MTV ではじめてプロモーションビデオが放映された黒人アーティストとして、マイケル・ジャクソンとともに名を連ねることになる。なお、本作のCDは1枚で発売されたため、収録時間の都合上、1980年代から1990年代にかけて発売されていたCDからは D.M.S.R. が削られている。 『ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・ベストアルバム500』(Wenner Books 2005)では163位にランクされている。
1999年にニューマスター盤が発売された。(Wikipediaより引用)


タイトルの1999はプリンスの描いた世紀末。このアルバムが発表された1982年には、1999年なんて遙か彼方の未来。1999年ノストラダムスの大予言により、”この世は終わるのだから今夜は思いっきり騒ぐのさ”という意味だそうです。

今アルバムは、当時2枚組のアルバムとして発売されましたが、トータルで70分の作品だったため、CD化に伴い一枚でリリース。その後のプリンス80年代全盛期の幕開けとなった作品となりました。これまで前衛的で敷居の高いイメージだったプリンスですが、このアルバムはポップで大変親しみ易い内容になっています。私はこのアルバムから彼に入ったので、結構入り易かった。。
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Prince
プリンス(アメリカ)
Purple Rain
6作目
パープル・レイン (Purple Rain) は、プリンス・アンド・ザ・レボリューションによる1984年のアルバム。プリンスが主演の同名映画のサウンドトラックである。
このアルバムは発表初週に100万枚を売り上げ、ビルボードチャートのトップに実に24週間も居座りつづけた。シングルカットされた「ビートに抱かれて」 、「レッツ・ゴー・クレイジー」 の2曲がシングルチャートで1位となり、プリンスは全米でのボックスオフィス、アルバムチャート、シングルチャートですべて1位を獲得するという偉業を達成する。なお、本作からは他に 「パープル・レイン」(2位)、「ダイ・フォー・ユー」(8位)、「テイク・ミー・ウィズ・U」(25位)がシングルカットされている。また、「ビートに抱かれて」は年間シングルチャートでも1位を獲得している。

パープル・レイン は、プリンスの1984年発表の代表作であり、ビジュアル・アーティストとしての本領を発揮した初の同名映画サウンドトラック。
このサウンドトラックはザ・タイムやアポロニア6など、プリンス アンド ザ・レボリューション以外のアーティストの曲は収録されていない。
このアルバムは初めてプリンス・アンド・ザ・レボリューション名義のリリースになった。フルバンドのパフォーマンスを強調した結果、ギター, キーボード, シンセサイザー, ドラムマシンなどが複数の層で重なり合い、以前のワンマンアルバムより音楽的な深みが増している。
音楽的には、パープル・レインは前作からのエレクトロファンクとR&Bの要素に、ロックフィールなグルーヴを強調したギターが合わさっている。
サウンドトラック記録のように、音楽の多くは、持ちました壮大で、総合されて、均一な(いくらかの評価によって)プロダクトとパフォーマンスは漠然とサイケデリックな輝きがある。
プリンスはこのアルバムの後、いくつかの要素を実験的なポップ/サイケデリックな方へ目指すが、パープル・レインの上の音楽は一般的に、プリンスの経歴で最もポップを指向するものと考えられている。
多くのクロスオーバーアルバムと同様に、無数のスタイルのパープル・レインの強化は、ポップ, ロック, ダンス、R&Bまで、通常、その莫大な支持率を一つに説明するために認められる。
レコードの飛躍的な売上高に加えて、音楽評論家はサウンドトラックの音楽の革新的で実験的な面に注意した。そして、「ビートに抱かれて」のべースに気づいたのである。これは、最も多くのアバンギャルドのポップとしばしば比較された。
オールミュージックには「妥協しないように、パープル・レインがプリンスが「大胆にポップとロック, ヘヴィ・メタルへ移動している間、彼のファンクとR&Bルーツを強化している」とレビューされている。つまり、プリンスを彼の実験的な傾向を見捨てることなく彼の最も人気のあるものにおいて代表したということである。
「テイク・ミー・ウィズ・U」は元々、アポロニア6のアルバムに用意した曲だったが、パープル・レインへの収録に変更された。 リリースされなかったが「コンピューター・ブルー」のロングバージョンが、映画内でプリンスがザ・レボリューションとリハーサルをしているシーンで一部セクションは聞くことができる。
また、発売前は2枚組という噂も流れたが直前に1枚に変更された。(Wikipediaより引用)

おそらく、プリンスのキャリアの中ではかなり浮いた異色作で、最もポップで大衆的な作品がこの”Purple Rain”でしょう。マイケル・ジャクソンといい、プリンスといい、やってるのは黒人ですが、やっていることはポップ/ロック。そこにハードロック、ニューウェイヴ、R&B、ダンス・ミュージック等の要素を見事に詰め込んでいますね。当時全盛だったMTVの力もあり、セクシャルなビジョアル・イメージのプリンスは、一気に一般の洋楽ファンに浸透していくこととなります。プリンスのエモーショナルなギター・プレイもきまっていてカッコいい!

これらの音源は、「八百屋さんの居酒屋やすい」で視聴できます。
http://www.kuromon-yasui.jp/izakaya.htm
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