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洋楽/男性VO/ポップス

Corey Hart
コリー・ハート(カナダ)
The Singles
ベスト盤
コリー・ハートは、同時期にブレイクしたブライアン・アダムスとともにカナダ出身の若手歌手として、純朴なイメージで人気を博し、その甘いルックスから、80年代のセックスシンボルとなった。
1983年に「サングラス・アット・ナイト」でデビュー。同年リリースされたアルバム『マイ・ファースト・オフェンス』が成功を収め、グラミー賞にもノミネートされた。他に「ネバー・サレンダー」「好きにならずにいられない」(エルヴィス・プレスリーのカバー)などのヒットがある。
1988年12月、日本でもコンサートを行なった。映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』出演の依頼を受けるが断り、その役はマイケル・J・フォックスが演じる事となった。
現在は2000年に再婚したフランス系カナダ人の歌手Julie Masseと娘3人、息子1人とともにバハマに在住。ソングライターとして妻やセリーヌ・ディオンなどの主にカナダのアーティストに曲を書いている。

当時アメリカのマーケットでは、ポップなサウンドでロック・シンガー達を売り込むやり方が蔓延していて、ビリー・アイドル、ジョン・ウェイト、サミー・ヘイガー、そしてコリーの先輩格であるブライアン・アダムスらが使い捨てのように次々と現れては消えていった。
だがコリーの場合は、「サングラス・アット・ナイト」の後大ヒットしたバラード曲「ネヴァー・サレンダー」「好きにならずにいられない」で少しづつ印象を変えながら、派手さはないものの着実にマイペースな活動を続けていった。
どのアルバムを聴いても、ひたむきに心を唄いつづけるコリーの姿勢は一貫している。逆に言えば、それが新鮮なものを常に求める音楽業界の中では飽きられ、しだいにプロモーションさえしてもらえないという状況を作り上げてしまったとも言えるのだが・・・。
よくブライアン・アダムスの弟分的扱いをされるコリーだが、それは、同じカナダ出身ということと、ブライアンよりはちょっと控えめなハスキー・ヴォイスを持っていることからくるのだろう。しかし、実際にはある意味正反対とも思える音楽性を持っていて、ブライアンが自分のパワーと情熱を全身全霊で外に発散させるタイプなのに対し、コリーは内に秘めたパワーと情熱を切々と語るタイプだ。ともすれば一見クールにも見えるが、彼はとてもシャイで温かい心の持ち主。それは彼の作る歌を聴けば自然と分かるはずだ。

1962年5月31日、5人兄弟の末っ子としてモントリオールで生を受けたコリーは、幼少の頃は父親の仕事の関係で、イタリア、メキシコを転々とした。
おかげでフランス語、英語、イタリア語、スペイン語を自由に使い分けられるという特技は身につけたが、友達ができず、さらに11歳で両親が離婚すると、モントリオールへ戻ってくるものの、すでに心を開かぬ内向的な性格の少年になっていたようだ。
しかし、14歳の時に初めて買ってきたシングル盤、ロッド・スチュワートの「マギー・メイ」との出逢いが、コリーをロック・シンガーの道へと向かわせることになる。
その後、キーボードと唄、作曲もこなすようになったコリーは、デモテープを作って売り込みを図るが国内ではまったく相手にされず、活路を見いだすべく、18歳の時に単独で来日し、ヤマハ世界音楽祭のカナダ代表として武道館のステージに上がった。1980年のことである。
結果は予選落ちで、失意のうちに終わってしまったが、この時のコリーを見ていた関係者から後にEMIを紹介して貰うこととなる。そしてこの時コリーは、いつか必ずこのステージへ舞戻り、自分のライブで客席を埋めてやろうと心に誓うのだった。
この後アメリカへ渡ったコリーは、デモテープを持って方々へ回ったが、ここでもまるで相手にされなかった。
ところが、カナダに戻り83年、地元のアクエリアス・レコードとの契約に成功。さっそく同年暮れにファースト・アルバム「ファースト・オフェンス」で国内デビューを果たすことになる。
ここからのシングル「サングラス・アット・ナイト」は瞬く間にヒットチャートを駆け上り、ついにはアメリカでも大手のEMIから翌84年に発売されることとなった。そして全米でも7位の大ヒットを記録。すでに大ヒットを連発していたブライアン・アダムスの弟分として一躍有名になるのだった。
ちなみにこのファーストアルバムにはエリック・クラプトンがドブロ・ギター(ブルースでよく使う反響音の大きいアコースティック・ギターで、よくスライド・ギターと組み合わせて使う)で参加している。どういう経緯で出逢ったのかは定かでないが、これまでも何人もの大型新人発掘関わってきたクラプトンのこと、すでに期待のロック・シンガーとして注目していたのは容易に想像が付く。最後のバラード曲でクラプトンのソロが聞ける。
このファーストアルバムからは、「とどかぬ想い」(It Ain't Enough)も全米16位のヒットを記録し、それまでの苦労が嘘のように順調なスタートを切ることができた。
つづく85年発表のセカンド・アルバム「ボーイ・イン・ザ・ボックス」からは、「ネヴァー・サレンダー」が全米3位となる大ヒットを記録。このシングル、カナダではなんと7週連続1位というすごい記録をうち立てている。このアルバムからは他にも「ボーイ・イン・ザ・ボックス」「愛こそ証」(A Little Love)のヒットが生まれ、すでに大物の風格をも漂わせていた。尚、この年本国カナダのグラミー賞にあたるジュノー賞を「ネヴァー・サレンダー」で受賞している。
また、初来日も果たしたが、この時は喉の調子が悪かったらしく、思うように唄えなかったようだ。
さらに翌86年には、彼の最高傑作と名高きサード・アルバム「フィールズ・オブ・ファイア」をリリース。少しバラードが多くなり、落ち着いた雰囲気をも感じさせるこのアルバムには、ヒットした「アイ・アム・バイ・ユア・サイド」やエルビス・プレスリーのカヴァー・ソング「好きにならずにいられない」(Can't Help Falling In Love)の他、「テイク・マイ・ハート」「ゴーイング・ホーム」といった名曲も収められ、それまでで一番“コリー自身”を表現できた内容になっていた。
ここまで順調な活動をしてきたコリーであったが、ここから歯車が狂いだしたのだ・・・。
87年には2度目の来日。翌88年には、それまでになく充実した環境下で、時間もたっぷりかけたアルバム「ヤング・マン・ランニン」をリリースした。このアルバムはコリー自身にとっても最大の自信作で、曲、内容ともに本当にすばらしい!
しかし、あろうことか、発表の時期にちょうどEMIアメリカとマンハッタン・レコードが統合され、その会社内部のゴタゴタに巻き込まれ、ほとんどサポートを受けられなかったのだ。さらにこのアルバムからマネージメント契約をした大物マネージャー、フレディ・ディマンと日本へのボーナス・トラックのことでもめ、喧嘩別れしたことも悪い方に作用した。(コリーは大の日本びいきでも知られ、後日来日記念ミニ・アルバム「フォー・ジャパン・オンリー」までリリースしている)
また悪いことに、このアルバムには「サングラス・アット・ナイト」のようなシングル狙いの曲がなく、アルバム全体で聴かせるような構成になっているため、宣伝なしでその魅力を伝えることは難しかった。結果は無惨にもまったくヒットせずに終わってしまった。
力説するが、このアルバムは本当にいい!個人的にはコリーの最高傑作アルバムだと思うくらいだ。
そして、この年の3度目の来日では、彼の夢であった東京武道館のステージを満員のファンで埋るのだが、この後のカナダ本国でのツアーを突然キャンセル。その間彼は自分の作品や取り組み方について自問自答を繰り返していたのだという。自信作「ヤング・マン・ランニン」が売れなかったショックがデリケートな彼の心を突き刺していたのであろう。
90年にはそういった迷いや憤りをパワーに変えたアルバム「BANG!」をリリースし、心機一転を図った。
しかし、この時またもやEMI社内の再編があり、満足なサポートは受けられなかった。もちろん、このアルバムも一切手抜きはなし。少し内容がヘヴィにはなっているものの、今までのアルバムと比べても何ら遜色はない。結果このアルバムも成功するにはいたらなかったが、この時のインタビューでコリーはこう語っている。「結果を気にしないといったら嘘になるけど、ヒットするかしないかなんて、結局は小さなことだと思う。問題は自分が何をどう歌いたいかなんだ。……自分に対して精一杯正直に生きて、それで人も一緒に楽しんでくれたらそれでいいんだよ」
この言葉どおり、サイアー・レコードに移籍して91年に(日本では92年)ワーナーから出されたアルバム「アティテュード・アンド・ヴァーチュー」では、それまでになく伸びやかで自由に歌うコリーの姿があった。なんと裏ジャケットの写真には、珍しく笑顔のコリーが写っている。また、このアルバムにはゲストとして、テレンス・トレント・ダービーやガンズ・アンド・ローゼズのベーシスト、ダフ・マッケイガンまで参加し、改めてコリーを応援する信望者が多いことに驚かされた。
この後、一時音楽界から遠ざかり、離婚も経験したが、96年には「Corey Hart」で見事カンバック。変わらぬ歌声を披露した。そして97年には、セリーヌ・デュオンの大出世作「レッツ・トーク・アバウト・ラヴ」(映画タイタニックのテーマ収録)に2曲をプレゼントし、キーボードとバック・ヴォーカルで参加もしている。
さらに98年にはカナダのみで自分のアルバム「Jade」を発表し、ジュノー賞にノミネートされたが、残念ながら日本発売はされなかった。(このアルバムのジャケット写真は前の奥さんが撮ったものとか)
最近では99年からセリーヌ・デュオンのコンサートに同行したあと、2000年にめでたく再婚。ただいまニュー・アルバムの準備中とか。
たとえヒットチャートにあがることがなくてもいい。いつまでもそのままのコリーでいて欲しいと願う。(HINE)2005.5更新 (Wikipedia,Rock Princessより引用)

前奏のインパクト強過ぎの「Sunglasses at Night」や名曲「Never Surrender」を聴いていると、ホント良いアーティストだったなぁ・・・と浸ってしまいます。「Chase the Sun」は”Young Man Running”のなかで一番好きな曲だったのですが、今ベスト盤の方は別バージョンでの収録。なお、エルヴィス・プレスリーの名曲のカバー「Can't Help Falling in Love」は入っていますが、エディット・ピアフの名曲のカバー「Hymn To Love」は入っていません。

これらの音源は、「八百屋さんの居酒屋やすい」で視聴できます。
http://www.kuromon-yasui.jp/izakaya.htm
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http://www.kuromon-yasui.jp/ordeo.htm