ボビー・コールドウェルは、の1970年代から1980年代にかけて流行したAORサウンドを代表するシンガーの一人。
ニューヨーク・マンハッタン生まれ。1978年のデビュー曲「風のシルエット(What You Won't Do for Love)」がヒットし、当時流行していたAORの新星として脚光を浴びる。洗練された音の世界を持ちつつも、多くの初期AORシンガーのようにボーカルスタイルはR&B色が濃く、ブルー・アイド・ソウルの歌手として分類されることもある。また作曲家としてボズ・スキャッグスに「ハート・オブ・マイン(Heart
of Mine)」、ピーター・セテラに「ネクスト・タイム(Next Time)」、「ステイ・ウィズ・ミー(Stay
with me)」などのヒット曲を提供(いずれも後にセルフカバー)している。
1980年代以降はアメリカでは振るわずも、日本では非常に人気が高く、AOR界ではボズ・スキャッグスと並び立つ存在。1990年代にオンエアされたニューヨークの夜景をバックに「Stay with me」「Heart of Mine」「Come to me」が流れるパーラメントのCMは、彼のイメージを象徴する一作でもある。現在も毎年秋になると必ずといっていいほど来日し、「秋のベンチャーズ」とも呼ばれることがある。
本国アメリカでは、セカンド・アルバムがリリースされた直後にレコード会社(T.K.)が倒産。新人にして2年という長いインターバルを開けた末、満足なプロモーションもできないまま世に出てしまったのこのアルバムは、当然売れ行きも鈍く、作品の出来の良さから考えると不運な結果となってしまった。ボビーにとっても、それだけ時間をかけた力作で、仕上がりも申しぶんのない自信作だっただけに、かなりがっかりしたことだろう…。
ポリドールに移籍してリリースした、つづく3作目(82年)と4作目(83年)は、自らプロデュースし、バックにTOTOのメンバーを加えるなど、ますます気合い十分でAORサウンドに磨きをかけ、日本での人気を不動のものにしたが、やはりアメリカではパッとせず、ボビーは失意のまま、シンガーとしての活動を停止してしまう。
その後ボビーは、85年頃からコンポーザーとして多くのアーチスト達に数々の名曲をプレゼントしている。コモドアーズ、ピーター・セテラ&エイミー・グラント、シカゴ、ボズ・スキャッグス、アル・ジャロウ、ジェームス・テイラー、マイケル・センベロ、ニール・ダイヤモンドなどなど、数え上げたらきりがないほどだ。中でもネクスト・タイム/ピーター・セテラ&エイミー・グラント(全米1位)、ホワット・カインド・オブ・マン・ウッド・アイ・ビー/シカゴ(全米5位)は大ヒットを記録したが、ボビーをシンガーとして再起させるきっかけとなったのは、ボズ・スキャッグスに贈ったハート・オブ・マインの大ヒットであった。同じAORシンガーとしてのボズ・スキャッグスの復活は、大いにボビーを勇気づけたようだ。
そして89年、6年ぶりに自らのアルバム「ハート・オブ・マイン」をリリースし、ミュージシャンとしてカンバックを果たした。
しかし、このアルバムはほとんど全曲、そのコンポーザー時代のものを自分でセルフ・カヴァーしたものの寄せ集めだったので、次にリリースした「ソリッド・グラウンド」が内容的には実質の復帰作と言えよう。
91年にリリースしたこの通算6枚目のアルバムは、昔と変わらずソウルフルな声と名曲の数々が収録されていたが、1曲だけ「スタック・オン・ユー」という異色のジャズ・ナンバー(自作)を入れたところ、これが全米ジャズ・チャートで大ヒット! これに気をよくしたボビーは、その後サウンド路線を変え、ジャズ・シンガーとしての道を歩み始める。90年代にリリースした以降3枚のアルバムは、いずれもフランク・シナトラ風のビッグ・バンド・ジャズが中心の内容だった。
彼の生い立ちを知れば、この成り行きも納得できるのだが、「ミスターA0R」がロックシーンから消えたのはたいへん残念だ。今後また気が変わってAOR路線に戻ってくれることを願いたい。(Wikipedia,Rock
Princessより引用)
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